東大ボート部に関わった期間を足し上げると、7年半ほど経つ。
最初の挑戦: 【自分との戦い】
大学受験と生徒会活動、そして軽い気持ちで全国大会まで行けてしまった放送部──それが高校時代のすべてだった。
特進クラスの同級生が、進学校には似つかわしくないくらい毎日野球に打ち込み、3年夏の地区大会で引退してからの追い上げで志望大学に合格した姿を見て「あいつらが持っている『芯』が自分にはない」と感じた。
当時は今ほど明確に自覚していなかったけれど、きっと心が渇いていた。
大学入学直後、飯を奢ってもらえるという軽い気持ちで参加したイベントで、当時のボート部女子主将に出会った。柔らかな話し方からは想像できないほど熱のこもった勧誘を受け、入部を決めた。
船の上では誰も嘘をつけない。自分が1ストロークでも手を抜けば、たちどころにクルーに伝わってしまう。ボートの厳しい部分であり、私の好きな部分だ。
自分だけの確固たる「芯」を手にして心の穴を埋めたい、そのためにはここしかない──そう思って、得体の知れないボート競技に打ち込むことを決め、入部した。
身体が大きく強くなっていくことは、それまでの人生になかった喜びだったが、ボート部の掲げる「日本一」が何なのか・なぜそれを目指すのかは、その後暫くわからなかった。
新人期のある週末乗艇の日、ストレッチ中に当時のチーフトレーナーさんがふと聞かせてくれた
最後のレースであるインカレM8+の順位決定戦(現在の Final B に相当するレース)、漕いでいるあいだ本当にきつくてずっと吐きそうだった。それでも、一着でゴールした瞬間に全部吹き飛んだ。レースで勝利するエクスタシーはすべてに優る。
ボート競技や艇庫生活にのめり込むにつれて、この言葉が心に深く刺さり、後々まで心に残る「呪い」のような存在になった。
1年生の夏に怪我をして、対校エイトを目指した私の漕歴は半年強で終わった。それでもボート部の空気が好きで、自分の人となりならサポートサイドで貢献できるという予感があったので、東大マネ(当時のスタッフの呼称)になった。実際、ごはん作りもモーター出しも、部車の運転も排水口の掃除も全部が楽しかったし、いわゆる「選手の気持ちのわかるマネージャー」として認識され、先輩から後輩に至るまでリスペクトと感謝を頂いていたと思う。
それでも、各年度の大きなレースが終わるたびに、心はいつも他人事だった。
ボート部の活動に打ち込んでいることには嘘はなかったし、客観的に見て選手の強化にも貢献していたと思う。それでも、「勝利した嬉しさも敗北した悔しさも、選手のものであって自分のものではない」という感覚がずっとあった。
最高代としてのインカレが終わっても、「芯」の原型が形造られた感覚と、3年半を駆け抜けた爽快感こそあれ、「結果への納得感」が欠落していた。心がどこか乾いたまま、引退を迎えた。
そういう「納得感」は、客観的な理屈や正論ではなく、神様が気まぐれに与えてくれるものなのだろうと悟った。それでも、挑戦し続けなければ、その気まぐれに当たることもないのだとも思った。
私と腰を据えて話した人は聞いたことがあるかもしれないが、私の人生をかけたテーマ=「陸にいる人間でありながら、『このレースは自分のレースだった』と思えること(と、そのための必要条件を満たし続けること)」が、この頃に形になった。
二度目の挑戦: 【良きチームの下地を作る】
現役引退後、院生トレーナーとして何度か新歓試乗会のスピーチを任され、私は毎度こんな話をした。
私の現役時代、東大ボート部は日本一から最も遠ざかっていた。「底の時代」といってもいい。それでも戦い続ける現役部員やコーチの想いで、いまこの部は着実に力をつけ、日本一への階段を登っている。
その上り調子のさなかに入部する新入生の君たちは、きっとボート部の長い歴史の中でも、最も脂の乗った、楽しい4年間を過ごせるはずだ。私たちと一緒に「日本一」を掴み取ろう。
ありがたいことに、私のこの話を聞いて入部したいと思った、と言ってくれる後輩もいた。
ただ当時、大学ボート界において東大は、他大学の強豪チームから恐れられてはいなかったと思うし、東商戦の連敗はすでに10を数えていた。
新人に夢を語るその言葉で、私は必死に、自分の背中を押していた。
大学院修士過程の2年+博士後期過程の1年 = 計3年間、その言葉に恥じない取り組みをしたと思う。
- R01とともに栄養チーム、R02/R03とともに広報サポート・メディカルチームの原型を立ち上げ、部内外の選手支援体制は大きく充実した。栄養・広報はその後も進化を続けたが、メディカルについてはR02代が(垂見マネが参画した現在の体制を除くと)、選手の故障からの復帰が最も早かった代ではないだろうか。
- 新歓についても、人数では私が現役最高代のとき、同期や後輩たちが達成した男女28人入部に届くことはなかったものの、体格や運動経験のある強い人を含め、それまでよりも多くの新人が入部してくれるようになった。
- 大人がトップダウンで指示を出すのではなく、現役部員が自らの頭で考え、腹落ち感を持ってトレーニング/艇庫運営の実践に落とし込むサイクルが回り始めた。
2度目の挑戦最後の年、戸田は台風による床上浸水とコロナ禍に見舞われた。
後輩たちとともに作り上げた「強くなった東大」のチーム力は残念ながら、主に天災対応で発揮されることとなった。
多くのチームや人々が未曾有の災害対応に苦心するなか、当時の東大は4年生を中心に非常に高いレベルで苦難を乗り越えたと思う。特に4月以降、多くの対校戦や公式戦がなくなる中、オンラインの会話・練習・新歓を通じて、全部員が最後まで高いモチベーションで戦う準備をし続けたことは、当時のチーム力がなければ成し得なかったことのように思う。
願わくば、もっとレースの場で全ボート界に「東大の復興」を知らしめたかった。
私個人としてはコロナ禍がなくとも、「現役引退後3年間」を活動の期限に定めていた。
現役時代の、右も左も分からぬままがむしゃらに打ち込んだ3年半よりも、強い目的意識を持って活動に取り組んだ。新歓担当OBや新人トレーナー、監督補佐として「必要条件」を満たし続けた3年間であった。私のこだわりの強さゆえにぶつかり迷惑をかけた人や、一緒に戦いたいと思っていても自ら部を去ってしまう人もいた。
理屈の上では、やれることは全部やったつもりだった。コロナの中迎えた2度目の引退式のときも、疲弊感はありつつも晴れやかな気持ちだった。
それでも、今年もう一度ボート部に関わってしまったのは、ボート人生にまだ心の奥底から納得できていなかったからなのかもしれない。
三度目の挑戦: 【???】
昨年10月末に、新歓担当OBとして東大ボート部に復帰してから10ヶ月。なんだかんだあって、いまは人生で初めてインカレクルーのコーチをしている。
現役部員のほぼ全員と初対面で、関わった期間は短い。社会人になり、学生時代と比べてボートに割ける時間も短い。けれど、特に直近の半年間、これまでにない強い充実感を持ってボート部活動に取り組むことができている。
この充実感の源泉や今年ボート部に関わった意味は、3週間後にインカレが終わってはじめて確定するような気もするが、今のところの私の仮説は








